短刀 白鞘入り 合口拵付き Tanto, in shirasya, with aikuchi Koshirae |
桜井正次
Sakurai Masatsugu |
【銘文】表 : 卍正次 裏 : 明治三十年八月 |
【寸法】刃長 18.4cm(6寸0分7厘)、反り 0cm(なし)、元幅 2.34cm、元重ね 0.65cm、目釘孔 1個、刀身重量 116.6g 、白鞘全長 31.5cm、拵33cm |
【時代】明治時代 |
【都道府県】東京 |
【特徴】姿は、平造、庵棟、身幅尋常、重ね厚め、先幅狭まり、無反りで小ぶりの姿。 茎は、生茎、鑢目筋違、先刃上がり剣形、目釘孔一。 地鉄は、小板目肌つみ、地沸微塵に厚くつき、地景細かに入る。 刃文は、匂出来、浅く湾れ、小互の目の頭が揃い、足入る。 帽子は、直ぐに小丸、ごく浅く返る。 金梨地塗合口拵 【見どころ】桜井正次は、田中青竜斎正久の次男として、明治元年四月八日、現在の東京都新宿区荒木町で生まれ、明治十七年、桜井安五郎の養子となります。泰竜斎寛次(固山宗次-泰竜斎宗寛-寛次)に、十三才から二十二才頃まで鍛刀法を学んでいます。明治二十八年三月、東京美術学校長の岡倉天心の推挙により鍛金科設置準備の嘱託となりますが、明治三十一年四月、岡倉天心が校長を罷免されるとこれに殉じ辞職します。翌月には、設置に携わった新宿区須賀町崇福寺の山浦清麿の墓碑が完成しています。卍正次という刀銘は、正次が禅を学んだ、文京区白山の竜雲寺の渡辺南隠がつけたものです。 千代田区永田町の鍛錬所から鎌倉市二階堂の瑞泉寺境内に鍛刀場を移したのは明治三十五年で、当時鎌倉で病気療養中であった有栖川宮威仁親王より大小鍛造を拝命しています。明治四十二年、有栖川宮威仁親王に召致され神戸市舞子に鍛刀場を移すと、親王に鍛刀場を如神殿、居所を臥龍庵と命名されます。後年、広島、静岡などでも鍛刀し、昭和十年に福岡県の宗像神社境内で鍛刀する頃には、主に子息の正幸がその任に当たりました。昭和15年、立命館日満工科学校に招かれ、京都市北区の衣笠山麓に鍛刀場を開き、正幸が主宰します。ここでの門弟に、のちに人間国宝となる隅谷正峯らがいます。 本作は、小ぶりの姿ながら重ね厚めのガッチリとした造り込みで、東京美術学校に鍛金科を設置するための準備に奔走していた正次三十才時の作品です。頭の揃った小互の目に足入る端正な刃文は、刃中明るく、精美な地鉄によく映えています。師伝を辿り、新時代の日本刀のあり方を模索した若き正次の姿・人柄が浮かび上がって来ると同時に、もしも明治期に日本刀の専門課程が東京美術学校に置かれていたらと、歴史浪漫をも感じさせる一口です。 【状態】小錆がわずかにありますが、全体的に良好です。 |
【付属品】素銅一重銀着ハバキ、白鞘、白鞘袋、拵、拵袋、登録証(新潟県 第060131号 平成2年10月26日交付)、保存刀剣鑑定書(日本美術刀剣保存協会 令和元年八月二十六日発行) |
【商品番号】A041018【価格】売約済 |
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